日本の歴史教科書 | 日韓歴史問題関係のマイナー史料・資料

日本の歴史教科書

表紙

表紙:左から順に、東京書籍、大阪書籍、扶桑社



東京書籍

東京書籍

韓国の植民地化

日露戦争後、日本による韓国の植民地化の動きがいっそう強められました。
韓国は1905年には外交権をうばわれ、1907年には皇帝が退位させられて、内政は韓国総督府ににぎられました。
このため、韓国では民族的抵抗運動が広がり、日本によって解散させられた兵士たちは、農民とともに立ち上がりました。
これは日本軍によって鎮圧されましたが、日本の支配に対する抵抗は、その後も続けられました。

1910(明治43)年、日本は韓国を併合し、朝鮮総督府を設置して、武力を背景とした植民地支配をおし進めました。

学校では朝鮮史を教えることを禁じ、日本史や日本語を教えて、日本人に同化させる教育を行いました。
また、土地制度の近代化を名目として行われた土地調査事業では、所有権が明確でないとして多くの朝鮮農民が土地を失いました。
こうした人々は、小作人になったり、日本や満州へ移住することを余儀なくされたうえ、さまざまな社会的、経済的差別を受けました。
植民地支配は、1945(昭和20)年の日本の敗戦まで続きました。



大阪書籍

大阪書籍

韓国併合と朝鮮の人々

日露戦争後、日本は朝鮮(韓国)の外交権をうばって韓国総督府をおき、次に朝鮮の内政権もにぎり、朝鮮の軍隊を解散させました。
解散させられた兵士は、農民とともに各地で日本の支配にはげしく抵抗し、初代韓国総監だった伊藤博文が、朝鮮の青年安重根に射殺される事件も起こりました。
その後、日本は1910年、軍隊の力を背景に朝鮮を植民地にしました。
これを韓国併合といいます。

併合の後、朝鮮総督府がおかれて日本の軍人が総督となり、朝鮮全土に日本の軍隊や警察を配置して、抵抗運動をおさえました。
学校では、日本語や日本の歴史を強制的に教えました。
このように、朝鮮民族の習慣や文化を否定し、日本に同化させる政策を進めましたが、台湾と同様、朝鮮の人々には選挙権を認めませんでした。
このころから日本人の朝鮮民族への優越感がいっそう強まり、いっぽう日本の支配に対する朝鮮の人々の抵抗もさらに続けられました。


扶桑社

扶桑社

韓国併合

日露戦争後、日本は韓国に韓国総督府を置いて支配を強めていった。
日本政府は、韓国の併合が、日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。
イギリス、アメリカ、ロシアの3国は、朝鮮半島に影響力を拡大することをたがいに警戒しあっていたので、これに異議を唱えなかった。
こうして1910(明治43)年、日本は韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した(韓国併合)。

韓国の国内には、一部の併合を受け入れる声もあったが、民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり、その後も、独立回復の運動が根強く行われた。

韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。
しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、日本語教育など同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた。

注)上は全て現行版(2005/4/26現在)